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品評会の基本情報

品評会のはじまり

錦鯉の価値とは何か。基本的には姿かたちの「美しさ」ということになるだろう。 錦鯉の品評会などでは、「美しさ」どのような基準ではかっているのだろうか。 一般的な見方をすれば、錦鯉はその模様の美しさに目がいってしまいがちだが、「模様」というのも重要な要素になるが、品種によって見るポイントがあるので、その違いについての知識は不可欠で、基本的な品種についての知っておく必要がありそうだ。 その他には、姿かたちのかたち、「体型」も重要になる。 錦鯉は日本の真鯉などと同様、水の流れがない池に生息するため、丸みを帯びた紡錘形である。その紡錘型が頭、胴、尾の部分のバランスが整っていればいるほど「美しい」とされる。

また、こうしたポイントに加えて、「質」というものがある。「質」というのは、錦鯉の体色の地色のことを指し、白地に赤、黒模様などの場合、白地があくまで白いもので、色模様がはっきりしているほど評価される。地色は成長にともなって変わっていくもので、10歳くらいをピークとして美しさが出てくるといわれる。 このような「美しさ」を評価するポイントを備えた錦鯉が一堂に会し、「美しさ」の優劣を競うのが錦鯉品評会であり、錦鯉生産者が手塩にかけて育ててきた錦鯉の成果を発表する場として開催されるもので、最初の錦鯉が出品された品評会は1912年(大正元年)に新潟県の水産試験場が主催した山古志地区の東山村木沢、現在の北魚沼郡川口町の小学校で開かれたものとされる。この品評会は錦鯉が商品として流通するようになったことを受けて新潟県が産業振興策の一環として開いたという。 これより2年後、1914年に東京都上野で開催された大正万国博覧会には山古志の各村から錦鯉が出品されて全国的に紹介され、錦鯉は地方の商品から全国的な商品へと拡大していくことになる。

この大正万博を期に山古志では各村単位で養殖組合が組織され、東村山、竹沢村、太田村の4村が持ち回りで年1回合同の品評会を開くようになり、このほかにも各村独自の品評会を開き、商品としての錦鯉の生産意欲の高さを物語っている。 この時代以降になると、誰でも品評会に自由に自分の開発した錦鯉を出品できることから錦鯉育成が新潟県全域に広がっていき、錦鯉育成が地域枠を超えて普及していったとされている。 戦中になると、戦時経済体制下で質素倹約奨励から贅沢品とされた錦鯉の飼育や販売にも影を落とし、品評会も開かれることはなかった。 品評会の再開は、戦後の復興に併せて各地で行われ、新潟県の錦鯉品評会は1962年に再開第1回目が行われたが、長岡市の錦鯉品評会はそれより10年以上前から開催されている。 こうした品評会は主に生産者だけの参加によるもので、お互いの作出成果を紹介し合って、交配、飼育技術などの技術交流を進め、錦鯉の品種改良を促進し、品質を高めることに主眼が置かれていた。 愛好家が直接出品、参加できるようになったのは、全日本総合錦鯉品評会や愛好者の組織する全日本愛鱗会大会、全日本鱗友会の全国品評会で外国人愛好家の出品もあり、「日本の錦鯉」(NISHIKIGOI)のブランドの普及が進められた。また、海外でも頻繁に錦鯉品評会が開催されるようになり日本から輸出された錦鯉に開催国で生産されたものが加わり人気を博している。 錦鯉が国際商品として広く流通、普及していることを物語るものといえる。